牧野富太郎について

牧野富太郎博士の生涯

日本の植物分類学の父とされる牧野博士は、文久2年(1862年)に現在の高知県で生まれました。ほぼ独学で植物の知識を身につけ、明治17年(1884年)に東京大学理学部植物学教室へ出入りするようになります。郷里での植物採集を中心に各地で採集をおこない、明治22年(1889年)に新種のヤマトグサに学名をつけました。これが国内において日本人が命名した最初とされます。

日本の植物相を解明しようと『日本植物志図篇』(1888-1891年)や『大日本植物志』(1900-1911年)などを出版し、博士の代表作『牧野日本植物図鑑』(1940年)は、現在まで改訂を重ね、植物図鑑として広く親しまれています。

誕生前夜

幕末の時代

博士の生まれた時代は、嘉永6年(1853年) アメリカの使節ペリー来航に始まる幕末動乱の時代でした。富太郎誕生のーヶ月前には坂本龍馬さかもとりょうまが土佐藩を脱藩します。この年には寺田屋事件、生麦事件があり、日本が近代国家への道を歩き出した時でもあります。まさに日本の夜明けと同じく、日本植物学の夜明けに富太郎は産声を上げたのでした。

おいたち

「岸屋」に生まれる

幼名を「成太郎せいたろう」と名づけられた博士は文久2年(1862年)4月24日、土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に生まれました。3歳で父佐平が、5歳で母久壽くすが病死し、6歳の時には祖父小左衛門が亡くなりました。幼いころ体の弱かった博士は、祖母浪子によって大切に育てられました。 幼名については誠太郎と『牧野富太郎自叙伝』に書かれますが、没後見つかったへその緒と髪の毛を包んだ紙には成太郎とありました。

少年期

勉学に励む

名教館めいこうかんなどで勉強に励んでいた博士は、外の世界を知ろうと17歳で現在の高知市へ行き、高知中学校の教員永沼小一郎ながぬまこいちろうに出会います。そこで新しい科学としての植物学を教えられ意欲に燃えた博士は、第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を買うため明治14年(1881年)、19歳の時に初めて上京します。東京では博物局の田中芳男たなかよしお小野職愨おのもとよしを訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりしました。

青年期

志を抱いて上京

博士は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)に再び上京します。東京大学理学部植物学教室に出入りを許され、大学では書籍や標本を使って植物研究に没頭しました。当時日本の研究者は、海外に植物を送り同定してもらっていました。博士も東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っています。図を絶賛する返事が届くなど、博士は天性の描画力にも恵まれていました。

壮年期

植物学者として活躍

『日本植物志図篇』の刊行や次々と新種の発表をするなど目覚ましい活躍を見せる一方、植物学教室の教授矢田部良吉やたべりょうきちとの確執も生じました。また、研究のため出費がかさみ、博士の実家の経営は傾きます。明治24年(1891年)に家財の整理をするため佐川に帰郷します。高知で写生や植物採集に励む博士は、同室の教授松村任三まつむらじんぞうから帝国大学理科大学助手として招かれることとなりました。

所帯をもち子供も生まれた博士は、大学の助手として植物学教室で働き、植物の研究に勤しみます。しかしながら、経済的に苦しく、松村教授とうまく行かなくなります。こうした極めて困難な状況のなかで、精緻を極めた植物図を収録した『大日本植物志』が刊行されました。また、各地の採集会に講師として招かれたり、同好会を立ち上げて指導にあたったりするようになります。どのような状況にあっても決して植物の研究をあきらめなかった根底には、博士自身の植物に対する深い愛情があり、さらには家族や周囲の知人らの大きな支えがありました。

晩年

大泉の地に引っ越す

大正15年(1926年)に北豊島郡大泉村(現練馬区立牧野記念庭園の所在地)に居を定め亡くなるまで暮らします。昭和2年(1927年)に周囲の声もあって博士は理学博士の学位を受けます。世間的には名誉なことでありますが、自らが平凡になったと思う気持ちもありました。翌昭和3年、富太郎に献身的に尽くしてきた妻壽衛が亡くなります。富太郎は、感謝の思いを込めて、仙台で発見して間もないササに妻の名前をつけることにしてスエコザサと名づけました。その悲しみを乗り越え、引き続き各地に赴き採集に励みます。

一方で、植物図鑑の編集に取りかかり、10年近い歳月をかけてようやく完成しました。『牧野日本植物図鑑』(北隆館 1940年)の誕生です。また、昭和14年(1939年)に47年間勤務した大学の講師の職を退きました。その後も植物とともに歩み、植物の知識を広めようと執筆にも力を入れて『植物記』(桜井書店 1943年)や『植物一日一題』(東洋書館 1953年)などの植物随筆集を出版しました。

最後の日々

自邸の庭で研究する

山へ採集に出かけられなくなった90歳ごろから、富太郎は自宅の庭で長い時間を過ごすようになりました。庭に移植した植物を観察・採集したり、標本を整理したり、時に、訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていたそうです。病床につく93歳まで、家族の心配をよそに寝る間を惜しんで植物の研究や、書き物を続けたエピソードが伝えられています。昭和32年(1957年)1月18日に満94歳で亡くなりました。

牧野富太郎博士の年譜

文久 2(1862)年
4月24日
土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)に生まれる
明治17(1884)年
上京し、東京大学理学部植物学教室へ出入りする
明治22(1889)年
日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけ発表する
明治26(1893)年
帝国大学理科大学助手となる
明治33(1900)年
「大日本植物志」第一巻第一集刊行
明治45(1912)年
東京帝国大学理科大学講師となる
大正 5(1916)年
「植物研究雑誌」を自費創刊
大正15(1926)年
東京府北豊島郡大泉村上土支田557に居を構える(現在の練馬区立牧野記念庭園)
昭和 2(1927)年
理学博士の学位を受ける
昭和 3(1928)年
壽衛夫人永眠、スエコザサを命名
昭和12(1937)年
朝日文化賞を受ける
昭和14(1939)年
東京帝国大学理学部講師を勤続47年で辞任
昭和15(1940)年
「牧野日本植物図鑑」発行
昭和26(1951)年
第一回文化功労者となる
昭和28(1953)年
東京都名誉都民となる
昭和32(1957)年
1月18日
満94歳 永眠 没後従三位勲二等旭日重光章および文化勲章が授与される
平成20(2008)年
練馬区名誉区民となる